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あおけんコラム
 
2020年3月31日
「Do It Yourself!」
だだっ広いが、しかし動線の悪いIKEAの店内。
母親に頼まれた品物を買い求めに来たのだが、小さな子供や大きなカートが、まるでラグビーの敵方のようにわたしの行く手をこれでもか、これでもかと妨害し、行きたい場所へなかなか行き着くことができないでいる。わたしはラグビーボールを抱えてゴールを目指している訳ではないのだ。頼まれたものを買って、さっさと家に帰りたいだけである。
度重なる敵方のブロックに疲労と苛々がじわじわと心身に押し寄せ、とうとう我慢できずに踵を返し、2階のレストランへと駆け込んだ。
さして美味しいものが食べられる場所ではないが、そんなわがままを言っている場合ではない。長い列に並びながら、他にすることがないので頭上に掲げられたメニューをじーっと眺める。疲れた果てた心はDIYバーガーの写真に釘付けとなり、何の疑いの余地もなくランチの注文を決めた。

白く大きな皿に、遺跡から発掘された千年以上前の干からびたベーコン、レタスであることをすでに放棄してしまったようなペラペラのレタス、刑務所のマットレスのように硬いハンバーグ、古い壁紙を剥がしたようなスライスチーズ、辛うじて無難な輪切りのトマト、そして二枚の半切りにしたバンズが並び、からしとマヨネーズソースが申し訳程度に色を添える。これを「自分で組み立てろ、Do It Yourself」ということだ。
何が悲しくて、湯気ひとつ立ち上がらない冷え切った食材を、イケア家具よろしく自分で組み立てなければならないのか。目の前の皿に腹を立てながら、積み木のようにひとつひとつの食材を積み上げてゆく。そして、出来上がった積み木の高さを見て、わたしは驚愕してしまった。

自分の口を最大限に広げてみたとしても、目の前にそびえ立つハンバーガーに食いつくことはとても不可能だ。いったい、どうやってわたしはこのハンバーガーを食べたらいいのだろう?
じーっと眺めつづけていても仕方がない。高くそびえる壁のようなハンバーガーに顔を近づけ、まるでレスリングの技を仕掛けるように、攻めの姿勢で立ち向かう。

そもそもハンバーガーとは、パンに挟まれた食材を一緒くたに噛みしめ、異なる食感や味を口の中で咀嚼し、その全体性を心ゆくまで味わい、やれやれごっくんと飲み込む食べ物だとわたしは解釈している。美味しさと、食べ心地の良さを探求する良心的な作り手ならば、一口のサイズを計算してハンバーガーの高さを設計すべきではないだろうか。しかし、このハンバーガーにいたっては、そのような設計目的は端から考慮に入れられていないようだ。

5階建ての建物の5階分を丸々味わいたいのに、まるで歯が立たないものだから、1階から攻めたり、5階から攻めてみたりと、未だかつてない強固な連携プレイで、頭脳と口は一心不乱にハンバーガーに立ち向かっている。しかし、これは何の攻めにもなっていない。
一口かじれば建物のバランスはたちまち崩れ、構造体の緩衝材となっている重要なソースが、グロテスクな様相で両指に無残にも滴れ落ちてくる。
果たして、これは食べるという行為なのだろうか。これはもはや積み木崩しではないか。幸運にも、わたしは大きなテーブル一台を独占して孤軍奮闘しているが、もし男性と向き合って昼のひとときを楽しもうものなら、その結果は散々たるものだろう。
しかし、いったい他の人たちはどうしているのだ? このハンバーガーとどのようにして格闘しているのだ?

店内同様にだだっ広いレストランをぐるりと見渡してみる。
食べ物を前に無邪気にはしゃいでいる小さなこども、無心に目の前の料理を空腹にかきこむ男性、料理よりもおしゃべりの咀嚼に忙しい中年女性、家から持ち込んだパンを大人しく食べている家族――。
味気ないくらい平和な雰囲気の中で、誰ひとりとして、目の前の積み木崩しに慄いてる様子がない。そんなはずはない。ふたたび注意深く周りを見渡すと、右手45度の方向で、白いテーブルに向き合って座る若いカップルが視野に入った。彼と彼女が手にしているものは、あのDIYバーガーだ。
ああ、彼女は彼の前で、いったいどうやってこの情け容赦のない、無粋なハンバーガーを攻め込むのだろう?

積み木崩しを両手に握り締めたまま、わたしは彼女の口元を凝視する。
彼女がとった作戦は、アメリカ映画の脱獄シーンそのものであった。囚人服の袖口に隠し持っている食事用のスプーンで、毎夜こつこつと監獄のぶ厚い壁を削り、仕舞いには壁を貫通させて、刑務所の外へ晴れて逃亡する。まさにそれと同じ方法で。
彼女は彼の前でたおやかな笑みを絶やすことなく会話を続けているが、間違いなく全精神は両手に持ったハンバーガーに一極集中している。5階分丸々ハンバーガーを楽しみたいという欲求は完全に抑圧し、構造体のバランスを崩すことなく、いかにスマートに解体してゆくか、いま頭の中は高速回転で問題の処理をしている。そして、リスがクルミをかじるように、ほんとうにちょこっとずつちょこっとずつ、バンズをかじり、レタスをかじり、そしてトマトをかじる。
彼女が食べているのは、もはやハンバーガーではない。彼女が食べているのは「エアーハンバーガー」だ。

彼女の手には、今のところグロテスクにソースは流れ落ちていないし、彼との会話も午後のひだまりのように和やかに進んでいる様子だ。
柔らかい毛糸でゆったりと編まれた淡いピンクのセーター、軽やかな白いプリーツのロングスカート、そしてピカピカに磨き上げられたエナメルのフラットシューズ。短い黒髪に、マーガレットの花のように可愛らしい20代の顔がハンバーガーを手にして、出来上がったばかりの恋愛が崩れ落ちませんようにと、用心深くハンガーガーと会話をかみ締めている。
積み木を崩しに崩して、何とかひと仕事やり終えたとほっと一息つくわたしの目には、その光景は春の陽射しよりもはるかに眩しすぎた。

目の前に残っている、レンガのように硬くなったフライドポテトに黄色いからしをセメントのように塗って、何でもかんでも粉砕してしまう機械よろしく口の中へ放り込み、半ば強引に胃へと送り込む。
最後に甘い甘いチーズケーキを食べて、ようやく人間らしい息を吹き返したわたしは、ふたたび店内のカオスに飛び込んでゆくのであった。
麻衣子
 
 
2020年3月26日
「通過儀礼としての、ビールとジャム、そして村上春樹」
キリンビールに落花生と干し小魚。そして、ミスタードーナッツにカフェオーレ。
心と季節の襞を埋めるには、しかしそれだけではもちろん十分ではなかった。そもそも、何が必要なのかも分からない。分からないでいるその合間に、ジャムも作った。
パソコン作業をする机の隣には、友人から譲り受けた木製の古い古い勉強机が置いてあり、そこに鮮やかな赤や黄、オレンジ色が充填された14個の小瓶が、まるで校庭で列をつくる小学生のように、日常の景色を何一つ乱すことなく、まったく平和な様子で並んでいる。
この小さな瓶の中には、いったい何が詰まっているのだろう。砂糖と果実、そして時間。どうもそれだけではなさそうだ。つかみどころのない切れ切れとした記憶までをも、空気に触れることなく完全に密閉してしまったようである。

ジャムの話ではなく、本当は、ビールに最適なグラスについて書こうと思っていた。
ビールを飲んで、美味しい!と思えるグラスとはいったいどんなグラスなのか? それは長い間解決しない、わたしの中での重大な問題であった。
はっきりしていることは、グラスの形状やサイズによって、ビールの味は確実に変わるということだ。
350mlの缶ビールをワイングラスに注いでみる。見た目は悪くないが、350mlのビールを一度に受け入れるほど、ワイングラスの度量はたいして大きくない。
一杯目を飲み干し、缶に残ったビールをふたたびグラスに注ぎ入れる頃には、恋愛と同じく、当初の新鮮な関係性というものは、生ぬるく、そして味の薄れたものに変わり果ててしまう。
ヴェトナム製の緑がかった薄いタンブラー。口に触れるグラスの薄さは、ビールの美味しさを間違いなく左右する。このヴェトナム製グラスは、その薄さとシンプルな形状からいけると思ったものの、やはり350mlの容量を満たすことなく、ビールとの蜜月関係には至らなかった。

買い物に出るたびに、色々なグラスを目にしたり、手に取ったりするのだけれど、心が食いつくビール専用グラスには、なかなか出会うことがなかった。
いいグラスがないのなら、いっそビールを飲むのを止めてしまおうかと真剣に考えもした。そして、グラスに関しては、もう完全に諦めていた。

たまたまある量販店のアウトレットコーナーをふらふらとしていたら、ビール以外には考えられない形状のグラスに出会ってしまった。
タブレットの持ち手部分が緩やかなカーブを描いてくびれ、そこから開口部に向けて弱冠広がりを持たせた、オリオン座のような形状のグラスだ。薄さもいいし、何よりも問題の350mlに完全にフィットする。狭くて暗い缶に身を縮めていたビールは、グラスという下着に軽やかに身を移し変え、美しく完全なボディーを、光のもとに余すことなく披露する。
グラスのくびれから上部に品良く収まる純白の泡にそっと口をつけ、美しさと苦味を併せ持った黄金色の液体を胃の中へ直接流し込む。ビールは飲むものではない。瞬間的な刺激を全身全霊で「感じる」ものだ。
ビールにとってグラスとは、その瞬間的体験をスムーズに、違和感なく、そしてスマートに実現させる舞台装置そのものなのだ。茶の湯の茶碗のように、そしてワイングラスのように、液体を受け入れる器とは、飲むという総体的な体験を、より深く味わう文化そのものなのだ。

地上に残された冬の残骸に埋もれた心と体は、春の思わせぶりな息吹に、その眩しい眼差しに、いったいどの方向に向かって動き出したらよいのか分からずに右往左往している。
ほろ苦く冷えたビールに落花生。砂糖をたっぷりまとったドーナッツと生ぬるいカフェオーレ。村上春樹と日々強まってゆく陽射しに、午後のまどろみの中で幸福に満たされて横たわる老いた犬。着重ねしたからだに、曖昧模糊とした生暖かい風が通り過ぎ、心の水面に思いがけない小波が立つ。
春という事象への、緩やかで平凡なわたしの通過儀礼。
麻衣子
 
 
2020年3月19日
「人の心と黒い森」
20代の頃師事していたお茶のお師匠さんから、年に1、2回、ダンボール箱にぎっしりと詰まった何冊もの本が届く。このお師匠さん、大変な読書家なのだ。日々増え続ける本は家に収まりきらず、断捨離と称して、読み終わった本を読書好きのお弟子さんに、気前良く送っているという訳なのである。

お師匠さんの好奇心と知識欲は海原のように深く広い。
宗教、医療、自然科学、文学、芸術、食、歴史、ハイもあればロウもある。ダンボール箱の中は、ボーダレスな海流が入り乱れ、毎回梱包を開ける度に、わたしはちょっとした混乱状態に陥ってしまう。我が知識と好奇心なぞ、このお師匠さんにしてみれば赤ちゃんも同然。人間としての在り様に尊敬を抱きつづける、唯一の人生の師である。

今回届いたダンボールにコロッと入っていたのが、「最強の基本食ががんを防ぐ」(幕内秀夫著)。簡単な文庫本なので、斜め読みをしていたら、巻末に掲載された著者の対談に、面白いことが書いてあった。
「アメリカの老化研究者が、長生きをするにはどうすればいいのかと考察した本があるが、結局『秘訣』なんてないという結論になる。それでは著者たちはどうするのかと言えば、食については、『たくさんの果物、野菜、食物繊維たっぷりの食品、そこそこの低脂肪タンパク質』としながらも、『チョコレート、バーベキュー、何でもいい、お気に入りの悪食への定期的な耽溺』と言っている。」と。
煙草もお酒も、甘いものも、すべて心が希求するもの。人間が持って生まれたそのような心の在り様をまずは肯定し、そこから日常の食習慣を見直してみると、とても興味深い発見がありそうだ。

ドイツとイスラエルの合作映画「彼が愛したケーキ職人(原題The Cakemaker)」(2017年)の冒頭で、「黒い森」というドイツの伝統的なケーキが象徴的に登場する。
ダークチェリーとチョコレートクリームをココアのスポンジ生地で挟み、真っ白な生クリームを豪雪地帯の屋根に積もる雪のようにたっぷりと上掛けをする。そこに、削ったチョコレートを散らし、幾つものチェリーが真っ赤な甘い誘惑を点滅させている、まさに「キング・オブ・シュガー」と称したくなるような外観のケーキだ。
主人公のケーキ職人が作るこのケーキを一口頬張った男性は、目尻を下げて笑みをこぼし、その味、そして作り手に忽ちにして心を奪われてしまう。それほどに魅惑的なケーキなのだ。画面を通して観ているわたしも、このケーキに釘付けだ。ダークチェリーの缶詰を買って、冬の気配が薄っすらと残っているうちに、このケーキを作ってみなければ。

名古屋駅にこまごまとした日用品を買いに出かけ、さんざん歩き回って心底疲れ果ててしまった。とその時、食材店のショーケースに陳列されたチョコレートケーキに、視線がぴたりと止まる。「黒い森」のような伝統的な古典的佇まいのケーキではなく、日本流に洗練された、品のいいチョコレートケーキだ。隣には、いちごのショートケーキとモンブラン、ケーキの御三家が美しく並んで、甘い誘惑をこちらに投げかける。
数時間前に、本屋でチーズケーキと読書に耽溺してきたたばかりだ。けれども、このチョコレートケーキを食べずに、黒い森の道を進んでゆくわけにはゆかない。誘惑と言い訳は、とても相性がいいようだ。

ココアスポンジとチョコレートクリームの美しい断層に、ショベルカーの如くフォークをさす。断層はしっとりとして、フォークの圧力に決して抗わない。ああ、あの映画のシーンがよみがえる。口の中に入ったと思いきや、それは食道ではなく、心の小路へ静かに溶け込んでゆく。控えめな甘さと厳選した素材、そして丁寧な作りが妙薬となり、たちまちに心身の疲れを癒してくれる。
誠実なケーキ職人によって作られたケーキは魔法そのものだ。この魔法は、胃袋ではなく、人の心に作用する。映画のように、言葉よりも、ケーキを一口食べただけで恋に落ちてしまうのだから。邦題の「彼が愛したケーキ職人」では、肝心なことが伝わらない。原題のThe Cakemakerは、まさに心の癒し手、そのものなのだから。

アメリカの老化研究者による、柔軟性のある考え「チョコレート、バーベキュー、何でもいい、お気に入りの悪食への定期的な耽溺」。食べ物は、決して健康を維持するものだけではないということ。人の心がある限り、この世から、黒い森がなくなることはないのだろう。
麻衣子
 
 
2020年3月12日
「昼寝の贈り物」
何もしたくない、何もできない――という絶望的な日が、突如として訪れる。こういう日は無駄に抗うことを諦めて、現実から遠く離れた映画の世界に逃避するのが得策のようだ。
ある映画監督が言っている。中途半端なことをするくらいなら、昼寝でもしていたほうがいい、と。名言ではないか。無駄に思えるような昼寝も、時には重要なものなのだ。

理由は何ひとつとしてないのだけれど、ジブリの「魔女の宅急便」を無性に観たくなった。この歳になるまで、一度も観たことも、観ようとも思わなかったのが不思議な位なのだが、どうもそれで良かったようだ。素敵な発見に満ち溢れた映画なのだと、今以上にきっと思うことがなかったから。

イギリスの「マイビューティフルガーデン」(原題This Beautiful Fantastic)という映画を数日前に観た。「庭」というフレーズが映画のタイトルに付いていると、どうしても手が伸びてしまう弱みがある。いったいどんな美しい植物や庭を見せてくれるの? そんな期待を真っ赤な風船のように膨らみに膨らませ、貴重な夜の数時間を、映画の世界に清く投資するのだ。

映画のシーンで、室内に植物の鉢植えが置いてあると、わたしの視線はすかさずそれらを鷲づかみにして離さない。物語の展開よりも、その植物の佇まいの方が、ずっとずっと重要なのだ。
韓国のとある恋愛映画。物語は非常に陳腐で、あくびが何度出たか分からないが、室内に配した植物の選び方は絶妙であった。それらは、無口ながらも、巧妙なメッセージを、観るものに、感じるものだけに投げかける。住人の文化度がいかほどのものなのか、生活のゆとり具合、どんな美意識を持っているのか、話し方の速度や声のトーン、どんな類の本を読んでいるのか――。
大半のヨーロッパ映画も、生活空間にとても効果的な手法で植物を置き、映画の質を高めるために重要な役割を担っている。しかし、何故か日本の映画には、人間の息遣いが伝わるような植物の使い方が希薄に感じるのは、わたしの勝手な思い込みであろうか。

「マイビューティフルガーデン」に話を戻そう。
薄暗い小さな会員制図書館の受付に、立派なオリヅルランの大鉢が、たった一鉢だけ置いてある。わたしは、このたった一鉢の存在に、イギリス人の植物愛をじんじんと感じてしまうのだ。
オリヅルランは、非常に地味な観葉植物だ。わたしも、10年ほど室内でオリヅルランを育てているが、この植物は独特な雰囲気を持っている。
どんな雰囲気かといえば、騒ぎ立てるでもなく、黙り込むわけでもなく、貪欲でもなければ、脆弱でもない。華麗でもなければ、しかし粗野でもない。一緒に住まうには、非常に距離感を保ちやすい生き物で、気が付いたら、ああ其処にいらっしゃいましたね、ありがとう。というような気さくな関係性を築きやすい。株が育てば育つほど、この植物は存在感を増し、とても姿が良くなる。
図書館に置かれた鉢は、手入れを怠らず、何年もかけてとてもいい具合に成長させた、人間と植物、双方の良好な関係性を映し出した姿、まさにそのものなのだ。

日本の病院や公共施設によく置いてある観葉植物ではこうはいかない。ああいうものには、空間に意味をもたせるだけの愛情が注がれていなければ、意味を持たせるだけの人間との深い関係性もない。
そういう植物は死んでいるも同然で、却って置かない方が空間はむしろすがすがしいのではないかと思ってしまう。そんな偽植物を、今までどれだけ目にしてきたことだろう。そして、日本には、そういう植物がなんと多いことだろう。

「魔女の宅急便」のはじまりは最高だ。
主人公キキが駆け込んでゆく我が家の庭。さまざまな草花がイングリッシュガーデンのように調和を保って咲き誇る。そして、母親が魔法の薬を調合するサンルームには、丹精に育てられた植物の数々が埋め尽くす。どんな深い、濃い植物の香りが満ちているのか、わたしには想像できる。
宮崎駿監督の植物への深い愛、そして憧憬がいかほどのものか、何の偽りもなく真っ直ぐと観るものに伝わってくる。なんて素敵なメッセージなんだろう。

わたしの夢は、キキの実家そのものだ。植物の深い緑の呼気の中で生活をする――。
どうして無性に「魔女の宅急便」を観たくなったのかは分からないが、忘れかけていたわたしの夢を、どこかの誰かが「大切なことを忘れてはいけないよ」と、この映画に手を伸ばさせたのかもしれない。
中途半端なことをするくらいなら、昼寝でもしていたほうがいい。改めて、名言である。
頭も心も体も、電源をすべてオフにして、昼寝同様に現実から少しだけ脱線すると、思いがけない贈り物がぽとんと頭上に落っこちてくる。
麻衣子
 
 
2020年3月5日
「マーマレード婦人の秘密」
ピール作り講習会が終わり、次に控えているのは、マーマレードとスコーンだ。
ピールもマーマレードも、材料とやることはほぼ同じなのに、ふたたび出口の見えない、甘くも暗い森の中をひとり彷徨っている。
マーマレードも、スコーンも、イギリスのお家芸だ。
風土も食文化も全く異なる日本人が、あろうことかエリザベス女王のお許しも得ずに、イギリスの伝統を自己勝手流に解釈し、ひとさまへ指南しようとしているとは、何と恐れ多いことだろう。

わたしがやろうとしていることは、上品なお寿司が、太陽の照りつけるアメリカの西海岸に降りたつや否や、着物を一枚、また一枚と脱ぎ捨てて、自由を謳歌するビキニ姿のカルフォルニアロールへと変わり果ててしまったようなものなのだろうか。
いや、それでいい。寿司に新たな命を吹き込むことで、種が広く分布し、存続できるのであれば。

その土地、風土、嗜好に合うように、そして何よりも、自分が食べて美味しい!と思えるものにオリジナルを再構築して楽しむことができれば、それ以上のものはないだろう。
オリジナルに固執しすぎるとやがて無理が生じ、先へ進んでゆこうとする道が、ぷつりと途絶えてしまうことがある。オリジナルに敬意を表しながらも、新たな発想と命を吹き込み、自分のものにしてしまったほうが、道はまがりなりにも、先へ先へと続いてゆく。

さて、マーマレードの鍋を前に、わたしは動きをぴたりと止めて、じーっと目を凝らしている。
これは、砂糖との出会いによる、柑橘というあるひとりの女の成長の物語なのだ。10の柑橘があれば、10の異なる成長の物語があり、毎回、毎回、こちらが想像もしないような、成長と変容を遂げるのであった。

若さだけを謳歌する柑橘が、砂糖との出会いを重ねてゆくうちに、個性という輪郭を現しはじめ、曖昧さの中から、意志のようなものを垣間見せるようになる。
砂糖は、柑橘の中に潜んでいる別の姿を、手探りで導き出そうとしているのだ。鍋の前に佇むわたしは、砂糖の背中を押して機会を促し、あとは完全な、しかし注意深い傍観者として、じっとその様子を伺っている。

柑橘は透明度を増し、全身を黄金色に輝やかそうとしている。いったいどこにそんな輝きと、妖艶さを隠し持っていたのか。
甘み、苦味、酸味、もろもろの複雑さを内包した柑橘は、そんな簡単に秘密を打ち明けることなどできないわと、成熟した女がもつ特有の笑みを浮かべ、わたしを多いに翻弄する。
分かりやすさよりも、分かりにくさのほうが、どうやら深みにはまるようだ。彼女たちが隠し持っている秘密の数だけ、黄金色の輝きは増してゆく。

甘くて暗い森の出口は、まだまだ見えてきそうにない。コロナウィルス騒動で、講習会は延期となった。時間はたっぷりとある。森の中を迷うだけ迷い、彷徨えるだけ彷徨い、柑橘が隠し持っている秘密に、わたしはほんの僅かでも触れることができるのだろうか。
麻衣子
 
 
2020年2月26日
「レシピという物語」
ピール(柑橘皮の砂糖漬け)作り講習会の準備で、我が身と生活を砂糖漬けにしていたある日。
近所の図書館の書棚をふらふらとさまよっていたら、「パリ砂糖漬けの日々――ル・コルドンブルーで学んで」という本のタイトルが目に入った。
こちらは砂糖漬けで今にも溺れそうな身だ。同胞を見つけたような気持ちで、迷わず本を手に取り、早速借りて帰途についた。

しかし、まだこの本を開く訳にはいかない。
なぜなら、講習会までに仕込まなければならない柑橘が、ながーい列を作って待っているのだ。本を開きでもしたら、すぐさま柑橘たちが暴動を起こしそうで、恐ろしい。
逃避願望を懸命に抑え込み、再び狭いキッチンで、柑橘の皮と鍋、そして砂糖とタッグを組み、いつ終わるかしれないピール作りの闘いに挑むのであった。

深夜も1時を過ぎただろうか。作業がひと段落し、興奮と憔悴した精神と肉体は、そのままベッドに潜り込もうとはしてくれない。電熱管が半分壊れた、小さな電気ストーブの前にへばり付くようにして、霞のような思考と視覚で、「砂糖漬け」の本をようやく開いた。

新聞記者を経て、紙面編集のキャップを勤めていた筆者の多田千香子さん。意を決して、10年以上勤務した新聞社を退職し、物事が決してスムーズには進まないパリで生活しながら、フランス語と製菓を学ぶ奮闘の日々をつづったものだ。
そこに、「黙らせサブレ」というお菓子の作り方を紹介している。ダイヤモンドという意味の「ディヤマン」が正式名称のサブレなのだが、知り合いの子供が食べ始めると、ぐずりがたちまち治まるので「黙らせサブレ」となったようだ。

世の中には、数え切れないほどの料理本やエッセイが、洪水のように溢れかえっている。しかし、本当に作ってみたいと心を動かすレシピは、ほんの一握り。
見た目の美しさだけでは、心はよいしょと重い腰を上げようとはしないのだ。それでは、いったい何がわたしの心を釣り上げるのか?
犬の鼻先に持ってゆくと、千切れんばかりに尻尾をぶんぶんと振らせる、あのジャーキーのようなものは、何なのか? わたしにとって、それはレシピの背景にある物語にあるようだ。

何度読んで、見ても飽きない、大好きな本がある。「白洲次郎・正子の夕餉」、そして「白洲次郎・正子の食卓」。白洲正子の長女、牧山桂子さんが、ご両親のために作った料理を、正子の審美眼にかなった食器に盛り付け、当時のエピソードを振り返って紹介したものだ。
これは、決してレシピ本ではないし、ましてや筆者はプロの料理人でもない。下手っぴなデザートも堂々と写真に載せ、飄々としている。
それでもこの本に魅力があるのは、食器と料理が調和している圧倒的な存在感と、一品一品に、ご両親と交えた面白くも、深いエピソードが、贅沢な副菜のように添えられているためである。
ひとつひとつの料理を見、読むたびに、そこから白洲次郎と正子の人間的魅力が、ふつふつと湧き上がってくるのだ。下手っぴないちごのミルフィーユでさえ、心揺さぶる魅力的なデザートとして、重いわたしの心を釣り上げようとする。

名うての料理研究家が、どんなに鮮やかな料理を紹介したところで、そこに体温のある物語がなければ、レシピはただ平ぺったいまま、紙の上から人間の手で引き上げられることはない。
レシピも文学的要素がないと、次の世代へ受け継がれることがないまま、葬り去られてしまうというわけだ。

さて、くだんの「黙らせサブレ」。オレンジの皮のすりおろしを入れると書いてある。
今、我が生活は、ピールの仕込みで「砂糖漬け」「柑橘の皮」という言葉に、異常反応する日々だ。深夜の闇に溶け込もうとしている脳みそと心は、「オレンジの皮のすりおろし」という釣り針に、いとも容易に引っかかってしまった。
材料がすべて揃っているし、作り方が簡単だ。ピール作りの合間を縫って、翌日、早速作ってみた。

「黙らせサブレ 25枚分」
・サイコロに切ったバター 100グラム
・薄力粉 135グラム
・上白糖 45グラム
・すりおろしたオレンジの皮(無いので、国産ネーブルの皮を使用。レモンの皮でも代用可)1個分
・塩ひとつまみは、有塩バターを使ったので入れない
・卵黄1個
・グラニュー糖
・ヴァニラビーンズは無いので入れない(母親が次回プレゼントしてくれると言っているが、多分もう忘れているだろう)

  • ボールに室温に戻したバターを入れ、ハンドミキサーで柔らかくなるまで練る。
  • 柔らかくなったら上白糖を入れ、白っぽくなるまでハンドミキサーで混ぜる。
  • 卵黄、ネーブルの皮のすりおろし、振るった粉を加え、ゴムべらで切るように、ひと塊になるまでしっかりと混ぜる。
  • 塊になったら、2分割し、棒状に簡単に手で伸ばす。まな板とまな板の間に挟み、上のまな板をごろごろ動かすと、均一な太さの棒状に伸ばすことができる。
  • 直径3センチほどの棒状にしたら、バットに広げたグラニュー糖に生地を転がし、しっかりとグラニュー糖を生地に付着させる。
  • 冷蔵庫で1時間以上冷したら、1センチ幅に包丁でスパッスパッとリズム良く、真っ直ぐに切ってゆく。
  • 焼き上がると倍に膨らむので、クッキングシートを敷いた天板に間隔を置いてサブレを並べ、160度のオーブンで15分ほど、淵にうっすらと焼き色が付くまで焼く。

仕上がりは、さくりほろりとした優しい食感。ほんのりとネーブルの香りも立つ。味見をしていたらきりがない美味しさだ。新人でありながら、我がお菓子作りの一軍入りを、見事果たした。 数日後、このディヤマンの上に、マンディアン(ドライフルーツなどを乗せたチョコレート)を乗せ、冗談のような言葉のもじりをひとり楽しみながら、職場のバレンタインに持ってゆくのであった。
麻衣子
 
 
2020年2月17日
「犬山市富岡新町の家」
鉄骨の設計図鉄骨の取り付け犬山市の富岡新町で施工中のお家、に工場で製作した鉄骨がつきました。昨年末から鉄骨制作図を書いて、鉄骨工場と打ち合わせを重ねて出来上がってきました。

南面に面したキャットウォーク・吹抜け・階段をぐるっと囲むように手摺がありますので、搬入や鉄骨同士の接続方法・建物躯体との固定方法・機能的な手摺の高さや部材の大きさなど、製作図を一人夜なべして書いたので嬉しさもひとしおです。もうすぐクリーニングですので、完成写真を撮影したらまたホームページの施工例に追加させていただきます。

こういう細かい積み重ねが家づくりの醍醐味…この現場も楽しかったです。ありがとうございます。
圭成
 
 
2020年2月12日
「わたしは踊る――鍋と砂糖と柑橘とともに」
10キロ以上の砂糖と6個の鍋、そして13種類の柑橘で、わたしの2週間は濃厚なシロップ漬けとなっていた。
金柑、伊予柑、八朔、獅子柚子、柚子、レモン、紅マドンナ、大三島ネーブル、ネーブル、甘夏、カボス、文旦、そしてグレープフルーツ。
どの日のページをめくっても、柑橘の皮を剥き、茹で、コンロの前で鍋の様子を伺い、砂糖を量り、狭い部屋の中に場所を見つけて柑橘の皮を乾かす、といったことを繰り返していた。

箸を片手にコンロの火加減を見、ペンを持ってノートに記録し、シロップが付いた手を引っさげて干したピールの様子を伺いに行く。
そう広くもない部屋の中をぐるぐると回り、あっちこっちに目と手と気を配る姿は、もはや阿修羅像そのものである。
時間を気にすると作業が止まってしまうので、仕舞いには時計を見ることさえ止めてしまった。こうなると、夜明けまでつづく盆踊りのトランス状態と何ら変わりはない。
わたしは、鍋と砂糖と柑橘の皮とともに、無我夢中で踊っていたのだ。阿修羅の中心軸が決してぶれないものなのかどうかは分からないが、わたしの生活の中心軸はずれにずれ、とうとう体調を崩してしまったのは、当然のなりゆきであった。

40代の人間が踊り狂うには、ちゃんと理由がある。
柑橘の皮を砂糖漬けにする「ピール」作りを教える機会を、念願叶って得たからだ。昨年のコラムでも紹介したが、趣味でピール作りをして10年ほどが経つ。
皮が厚いため食べる手間と面倒があり、酸味の勝った八朔や夏蜜柑などの柑橘は、年々消費が減少して肩身の狭い思いをしている。
わたしだって、食べるなら甘い蜜柑のほうがいい。皮が薄くて、濃厚な甘みを持つ紅マドンナなどを食べたら、八朔など生食したいなどと思わない。
しかし、この嫌われ柑橘が、加工の手間を加えることで、見事な加工食に生まれ変わるのだ。その魅力を多くの人に知ってもらいたい。この思いが、「教える」という場に幸運にもつながった訳だ。

砂糖と柑橘と、集まる方々の期待が、背中にずっしりと圧し掛かる。
ファーストリテイリングのグローバルクリエイティブ統括である、クリエイターのジョン・C・ジェイの「若いデザイナーたちへの10のレッスン」が頭をよぎる。

  • 自分に正直でありなさい。君が持っている最大の資産は個性だ。ああしろこうしろという他者の言うことには耳を傾けるな。
  • 他の誰よりも仕事に励みなさい。努力は必ず報われる。
  • パソコンから離れ生身の人間、本物の文化に触れなさい。これが人間の本質である。
  • 技に磨きを掛ける事を怠るな。思考の革新のみでは足らない。手先を動かしモノを作りなさい。
  • 可能な限り旅に出なさい。旅先で自分の無知を再認識することはとても謙虚で刺激的な経験である。
  • 現代社会はテクノロジー率先で流行に翻弄されやすい。しかし、その中でもやはりオリジナリティは君臨する。
  • 自分もそうなりたくないのなら愚かな者の元で働くな。
  • 本能。直感。己の力を信用する事を学びなさい。
  • 黄金律「おのれの欲するところを人に施せ」は真。善意に尽くせ。
  • 例え他のすべてが失敗しようとも、「2」を維持できればそれは君のキャリアの最大のアドバンテージになるであろう。

本来なら捨ててしまう皮を、自分の手と、砂糖と、時間によって、宝物へ再生させるということ。これは循環型社会の、魅力あるひとつの提案ではないだろうか。
大きなビジョンを持たなくても、自分の足元からできることは沢山ある。
今、スーパーでは皮の分厚い柑橘が、ごろごろと棚に積まれて、誰かの手の中に納まるのをじっと待っている。
その分厚い皮膚と、わたしたちの皮膚が触れ合ったとき、いったい何が生まれるのだろう。
確かなものは、みずからの手の中から紡がれるにちがいない。わたしは、そう信じたい。
麻衣子
 
 
2020年1月31日
「記憶と未来、そして今を編む」
わたしは、マフラーすらまともに編み上げたことがない、正真正銘の編み物劣等生だ。それがどういう風の吹き回しか、編み棒を十数年振りに握っている。

2年前の初夏、大きなバックパックを背負って日本の窯場を旅している、チェコ人の女性と知り合った。旅行代金を少しでも節約するために、公園でテントを張って寝、グーグルマップを羅針盤に、出来るだけ公共交通機関を使わずに、歩いて旅をしているという。
もちろん、食事も節約だ。
リュックの中から取り出したのは、鮮度を失いつつあるレタスひと玉。お腹が空いたら、葉っぱをちぎって食べるそうだ。
彼女の旅は、貧しさや、制約の中を進んでいるのではなく、自分の責任と価値観に従った、完全な自由の中を進んでいるということを、誤解しないでほしい。
見も知らぬ他人だが、彼女の礼儀正しさが国境を越えた何よりの保障となり、野宿に同情して、2日ほど家に泊めてあげることとなった。

チェコのプラハでは、友人の家の庭に設置した貨物コンテナで愛犬と暮らしながら、知的障害児に陶器製作を指導する仕事で、生計を立てているという。
とても手まめな女性で、家族と友達、亡くなった祖父母、死んだ愛犬を模した小さな人形を何体も布で手作りし、彼らと共に旅をしているのだと、愛おしそうに大切な宝物を見せてくれた。
その彼女が、すべて異なるデザインで100枚のニット帽を編み上げ、展示をするプロジェクトに取り掛かっているという。なんて素敵なプロジェクトだろう。
彼女の彩り豊かなニット帽は、わたしの脳内の引き出しに、そっと大切に仕舞われた。

先日、フリーマーケットへ数年ぶりに出店した。
隣のブースでは、中年女性がみずから編んだ小物やかばん、ニット帽などを、山ほど売っている。手の平に乗る大きさに編んで、中に綿を詰めて仕上げた、リンゴや柿、ミカン、バナナなどの果物や、トマトとレタス、チーズをバンズに挟んだ手の込んだハンバーガーなど。
毛糸で編み上げられた食べ物を、じーっと見るだけでは飽き足らず、触って脳にその柔らかさを再認識させようとする。
店先に立ち止まったまま動かないでいる小学生の女の子も、どうやらわたしと同じ考えのようだ。客足がまばらな晴天の青空の下、自分の出店のことなど、もはやどうでもいい。
わたしの頭の中は、かぎ編みの魅力に、完全に侵食されてしまったのだ。

小さな果物を1個編むのに、1時間ほどの時を要する。彼女はそれを、惜しげもなく2個100円の安さで売っている。
編んだものが家の中に溢れかえっているから売れればいいの、とにこにこと笑っているが、彼女がはじき出した価格というものは、わたしの脳内を充分に悩ました。
チェコのニット帽が、頭をよぎった。本当の趣味とは、こういうことなのだろうか。
お金で決して換算できない、しない物づくりだからこそ、逆に人の心を引き付ける魅力を持っている。
毛糸の柔らかさと、彼女たちの心と手の柔らかさに、矛盾というものが何ひとつとして見当たらない。彼女たちの精神の豊かさが生み出す、編み目がきちんと整ったマフラーに、わたしの心はぐるぐる巻きにされてしまった。

間伐材で作った大小さまざまなトナカイが、職場に点在している。
クリスマスはとうに過ぎてしまったとういうのに、健気にも、まだ首に鈴をぶらさげている。マフラーでもしてあげればいいのにねー、と同僚と話していたまさにその時、編み物の天使がわたしの頭上に舞い降りた。
トナカイのマフラーすら編み上げられなかったら、もう二度と編み物はするまい――。
実家にバイクを走らせ、母親に毛糸と道具を借りて、教えを乞う。小学生のような童心さで、1本の小さなマフラーを編み上げる。編み目は整い、上々の出来栄えだ。

マフラーを巻いたトナカイは、生き生きとした表情で、今にも外へ駆け出してゆきそうだ。今、彼らの頭上には、ボンボンの付いたニット帽が乗っかっている。
着心地はどう、暖かい?
麻衣子
 
 
2020年1月24日
「頭の中がフルーツポンチ」
頭と家の中が、フルーツ漬けとなっている。
南向きのリビングとふすま一枚を隔てた、冷蔵庫のように冷え切った北の和室に足を踏み入れると、王林、キウイ、カリン、獅子柚子、柚子、レモン、ミカン、ネーブル、ハッサク、柿、パパイヤ、パッションフルーツ、金柑、甘夏の一群がじっと睨みをきかす。
いつになったらわたしたちを加工してくれるのだ――。わたしはたじろいで、熟した富有柿と王林、パパイヤをあわてて両腕に抱え込み、そそくさと台所へ逃げ帰る。

さてと――。
パパイヤはひと加工すると、生食時に感じる独特の臭みや、えぐみのようなものを取り除くことができる。柑橘の酸味を加えることによって、爽やかな味わいに変化するパパイヤジャムは、生食を嫌う人でも食べることができるようだ。
こういう一癖あるフルーツほど、加工する面白さがある。腕をまくり、今回はドライフルーツの仕込みにかかろう。

パパイヤの皮を剥いて種を取り除き、大きめの短冊に切り分ける。水と砂糖を火にかけて作った薄めのシロップを冷まし、パパイヤにひたひたに漬けて一日置く。
翌日、シロップだけを取り出し、砂糖を加えて濃度を高めたシロップを作り、冷めたらパパイヤに注いで再び一日置く。
砂糖の浸透圧で余分な水分を取り除いたパパイヤ。ベランダに吊るした乾燥ネットに入れ、自然まかせに干されるのをただ待つのみ。
出来上がった干しパパイヤは、甘みと色彩が濃厚だ。レーズンやピール、干し杏などと肩を並べる、フルーツケーキの優秀な具材へと晴れて昇格となるのであった。
鮮度を失った王林も、パパイヤと同じように処理をしてドライフルーツにしてしまう。

さて、お次は?
熟しきった富有柿2個が、首を長くしてお待ちだ。
ヘタを水平に切り取り、果実をスプーンできれいにすくい取ると、残されたものは極薄の皮一枚のみ。取り出した果実よりも、手のひらに取り残された、透き通った皮の抜け殻の美しさにほれぼれとしてしまう。
これをゴミ箱に捨ててしまうのは勿体無い。皮は天日でからからになるまで干して食べると、とても美味しい。同じように、干したりんごの皮は、蜜のように深い甘みで、食べだしたらとまらない美味しさで、やみつきになってしまう。

ちなみに、ミカンの皮も捨てずにベランダに干している。
たくあんを作ろうと思いせっせと干してみたものの、志はいつしか折れ、ミカンの皮だけが空しく手元に残った。
漢方となる陳皮(ちんぴ)にするには余りに大量だから、しばらく入浴剤として香りと効能を楽しもうか――。

柿は、柑橘の酸味を加えてジャムにすると、あっさりとした甘みとなって美味しい。
熟した富有柿にハッサクの果実をふんだんに取り入れるか、それともパッションフルーツの香りと酸味を加えた、挑戦的なジャムにするか。
待てよ、せっかくだから、今期最初で最後の柿羊羹を作ってもいい。取り出した柿の果実の問題は、しばし冷凍庫の中で凍結することとなる。

閉じたふすまの向こうには、冷凍庫に入りきらないその他の問題、つまり数々の柑橘が今か今かと足踏みをしながら、加工の出番をじっと待っているのである。
麻衣子
 
 
2020年1月14日
「三文役者と石油ストーブ」
職場の休憩所に、昔ながらの円筒型の石油ストーブが置いてある。
寒い日、このストーブの存在が、どれだけ心身を温めてくれていることだろう。
普段は、頭上に大きなアルミ製のやかんを掲げているが、こんな有益な調理器を、やかんの湯を温めるだけに使っているのはセンスのない話ではないか。
そこで、冬だけの休憩時の楽しみを、この石油ストーブから編み出してゆくのであった。
今冬は、焼きりんごからはじまった――。

休憩所のテーブル上に、痛んで大きな茶色い染みのできた2個のりんごが、何日もそのままの状態で置かれていた。
「俺の視野に、そんな腐ったりんごを置いとくな。さっさと捨てっちまえ。」と、べらんめい口調で言い放った同僚男性のひと言は、「ひらけーごま!」の呪文のごとく、普段は堅く閉ざしている女性陣の怒りの扉を、いとも容易に開け放ってしまった。
怒りの瞬発力が、正当な方向へ向けられることほど素晴らしいことはない。
同僚男性の目の前で、腐ったりんごは、たちまち焼きりんごとして救済されることとなったのであった。

りんごの痛んだ部分は、包丁でそぎ落としてしまえばいい。
上部を包丁で平らに切り落とし、芯の部分を軽くくり抜き、バターを乗せる窪みを作る。
芯抜き器があれば最高だ。
バターとシナモン、砂糖を窪みに乗せ、アルミを2重に包み、石油ストーブの上で30分ほど放置する。ジュージューと果汁が焼ける音が聴こえてくれば、焼きりんごの出来上り。

アッチッチと熱々のアルミ箔を開けると現れる、湯気立つジューシーな焼きりんご。
スプーンで柔らかくなった果実をすくって口の中に入れ、はふはふ言いながら口内、そして喉を通過してゆく熱い果汁。
冬の寒さと石油ストーブは、春にも、夏にも、そして秋にもない、からだの心身に余韻を残す幸福を与えてくれるもののようだ。
目で感じる炎の色、そして肌で感じる暖気、やかんの湯が沸く音、もしくは焼きりんごから滲み出る果汁の焼ける音、そしてそれを共有する人々との関係性――。
そのすべてが、冬の今という瞬間を、永遠性のあるひと時のように錯覚させるのだ。

きっと、ひとりで焼きりんごを作っても、同じような感動は生まれないだろう。
外の厳しい寒さと労働を共有し、互いを労わり合う気持ちがスパイスとなり、石油ストーブの上で作られる焼きりんごを、他の何にも替えがたいご馳走にしているのだ。
そう考えると、もはやこの石油ストーブは春の桜と同じく、冬には無くてはならない舞台装置となってくる。
春の桜の木の下で、人々が浮世離れの陽気さを演じるのならば、冬の石油ストーブの周りで、同じくひと時の幸福を演じてみせるのだ。
幸せの雰囲気とは、意外に簡単に作り出せるものなのかもしれない。
舞台があり、そこで皆が上手く演じられるのであれば――。

さてその後、三文役者たちは、石油ストーブを舞台に、定番の焼き芋を小道具にして陽気さに浮かれた。
さつま芋をひとつひとつ新聞紙に包んだらしっかりと水を含ませ、アルミ箔で覆う。
それらを石油ストーブの上に寝かせたら、大きな鍋のふたを被せ、途中天地を返して、1時間ほど放置する。
アルミ箔をむしり取り、茶色く焼けた新聞紙をこじ開け、やっと姿を現したシルクスイート。
皮を剥けば、黄金色の素肌が白い湯気を立ち上げる。繊維が細かく、口に入れると咀嚼する必要がないほど、ジューシーでねっとりと甘い。何という美味しさなのだろう。
「焼き芋はシルクスイートに限る」。これは我ら三文役者の金言だ。

先日は、雨の中で作業して冷えたからだと衣服を、石油ストーブで暖めながら、幾つもの餅を網に載せて焼いた。
ぷくーっといびつな形に餅が膨れてゆく姿を眺めていると、雨に濡れた悲しさがたちまち幸福なものとなってゆく。人間とは単純なものだ。
餅が膨れる単純さと同じくらい、人の気持ちも簡単に膨らんだりへこんだりするのだから。
幸福に膨らみきった餅を熱々のぜんざいにぽとんと落し、ずずずずーっと冷えたからだに流し込む。古びた休憩所に響き渡る、ずずずーっという啜り音。
三文役者たちが、声高に台詞を吐く必要はないようだ。なぜなら、沈黙ほど饒舌な台詞はないのだから。

冬はまだまだつづく。
石油ストーブを舞台に、次はどんな作品が生まれるのだろう。
麻衣子
 
 
2020年1月6日
「仏陀の乳粥」
毎晩、スーパーハイブリッド甘酒を飲んでから深い眠りについている。
スーパーハイブリッド甘酒とは、わたしが進化させた甘酒だ。つまり、色々な素材の長所を組み合わせた、最強の甘酒。
そもそも、これは、健康オタクの70代の男性同僚から、はじまった――。

彼は、みずからの健康維持管理において、非常にまめまめしい。
炊飯器で1カ月かけて仕込んだ手製の黒にんにくを食べ、40年糠漬けを絶やさず、嫌いな納豆を薬だと思って食べ、ビタミンCやヨーグルトも欠かさず摂取。
ペットボトルから水を飲んでいるのかと思いきや、らっきょう漬けの汁を薄めたものを飲んでおり、弁当は、チーズに卵、枝豆、トマト、しじみの味噌汁、おにぎりと、簡単ながらも完璧な栄養バランスを保っている。
若い頃から登山で鍛えた足腰の強さもあるが、背筋が伸び、発声も明瞭。犬の散歩に付き合って2時間歩いたところで、へっちゃらなんだそうだ。

その彼が、職場の休憩時に甘酒を飲んでいた。
麹がしっかりと米を分解した証拠に、水分の多い見るからに美味しそうな甘酒は、彼が欠かさず仕込んでいるものであった。
過去に何度も甘酒作りを失敗しているわたしは、どうしてもその甘酒を味見したい。彼にお願いして分けてもらったその味は、とてもあっさりとした甘みで飲みやすい。
しかし、麹で作る甘酒は、まだこの時点では、わたしの足元へ歩み寄って来ることはなかった。

冷え性がひどく、何か対策をしなくてはこの冬を乗り切れない――。
危機感から、酒粕で作る甘酒を飲み始めた。
水に、酒粕と生姜、甘み付けに蜂蜜を加えて温める。しばらくこれを飲み続けていたが、ある晩、甘みに蜂蜜を加えるくらいなら、麹で甘酒を仕込んで、ハイブリッド甘酒を作ってしまえと、眠りに陥る前の脳内に突如、電流がビリリと流れた。

スーパーで麹を買い、表記通りに甘酒を仕込んでみる。
炊いたおかゆを60度に下がるまで荒熱を取り、ほぐした麹を混ぜ入れる。炊飯器のふたをあけたまま保温状態にし、布巾をかけて60度をキープし、途中、何度か全体をかき混ぜながら、約10時間放置する。
同僚の作る甘酒のようにさらっとはしていないが、しっかりとした甘みの甘酒に仕上がった。

さて、麹で仕込んだ甘酒に酒粕、そして生姜を加えたハイブリッド甘酒は晴れて完成したものの、何かが足りない。何が足りないのだろう?
冷え性を改善するために作り、飲み始めた甘酒が、いまや、如何に最強の飲み物として進化、発展させるかということに意識が向いている。
毎晩就寝前に飲むものならば、美味しくて、栄養がいっぱい詰まったものがいい。
そこで、甘酒に、豆乳と干した柿の皮を加え、仕上げに、お猪口1、2杯程度の日本酒をぽたりとたしてみる。
まだまだ進化できる――。糀の甘酒を豆乳で仕込み、さらに濃厚な味わいを足すこととなるのであった。

酒粕、麹甘酒、豆乳、生姜、柿の皮、日本酒、塩、蜂蜜。
単独で発揮できる効能、味は限られているが、互いの長所を生かすことで、スーパーハイブリッドな甘酒が誕生したのだ。
就寝前のぼんやりとしたひと時に、カフェオレボウルになみなみと注がれた、この温かな飲み物を両手でしっかりと包み込み、口からからだの全細胞へとゆっくりゆっくりと流し込む。
仏陀が口にした乳粥は、こんな味であったかもしれない――。
乳白色のやさしさに、一日の疲れは忘却の彼方へと流れ去ってゆく。
麻衣子
 
 
2020年1月1日
「新年のご挨拶」
新年おめでとうございます。新年の計は元旦にあり…ということで、除夜の鐘を108つの煩悩と共に聞き、早朝仏壇の前で読経をして自分を奮い立たせます。一つ一つ歳を重ね年齢と経験が上がるごとに、「自分は正しい」「自分は間違っていない」「目に見えるものが全てなんだ」「俺は頑張っている」と高慢な気持ちになっていくのを私は恐れます。

元旦に自分を奮い立たせるのは決して仕事の成果でも目標の為でもなく、「今年もまた一年、謙虚に腰を低く、自分の中にある純粋な気持ちを大切にして、一年を大切に生かされていこう」と誓うため…私という個体は、様々な思い上がりや雑念が内側から沸々とあらわれ、純粋さを蝕もうとするのです。

それに負けずに、「朴訥(ぼくとつ)」を旨として精進していきます。本年も何卒よろしくお願いいたします。
圭成
 
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