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あおけんコラム
 
2019年6月12日
「全身に喜びを浴びて」
雨が大地を濡らす6月。
植物は緑の濃さをますます深め、鳥たちは喜びの声を際限もなく響かせる。
自然が満ち足りているその懐の中、
雨滴る色とりどりの紫陽花をこの手で切り、花瓶へ命を活け直す。
その時、歓喜のため息がわたしの口からこぼれ落ちた。

幸せの瞬間とはこういうものなのだろうか。
わたしを取り囲む、今という時間と環境すべてが互いに交感し合い、
握りしめたらこぼれてしまう、わずか一瞬の出会い。

God bless you.
6月の雨音に絡み合い、幸福の吐息が、ふとした瞬間に頬へ触れる時、
わたしは全身で喜びを飲み込み、ふたたび大気へ歓喜のため息を返礼する。
麻衣子
 
 
2019年6月4日
「心と、空き瓶の準備はできている」
昨年購入したグラニュー糖の総量は、約40キロ。すべては、この季節から始まるのだ。

今年は小梅は買わない、そう心に決めていた。
昨年、カリカリ梅を初めて作ったものの、嗜好性が合わないのか、途中で完全に食べ飽きてしまった。なので、今年は小梅を見ても何の動揺もなく、容易に目の前を通り過ぎることができるはずだった――。

仕事の休憩時、心優しい同僚が、口の中に放り込んでくれた一粒の小梅の梅干。
大梅にはない爽やかな甘みと、口の中で負担にならないその小ささが、暑い日の塩分補給にぴたっとはまった。
揺るがぬはずの信念は、ぐらぐらと音をたてて崩れ落ち、数日後、2キロの小梅を手に入れた。
家に戻ってすぐに小梅を洗い、竹笊にあげて水切りをする。
弱冠熟し足りないので、皮の柔らかい美味しい梅干に仕上げるために、黄色く追熟させてから塩漬けに取り掛かる。

今年は、完熟した南高梅を待ってから梅干を漬けようと思っていた。
昨年、同僚と手に入れた熟し切って捨てる寸前の南高梅。
30年の経験がある彼女が仕上げた梅干しは、ふっくらとして立派な美味しいものであった。
片や初心者が作った梅干の何とも貧相なこと。雨に打たれては干されることを繰り返していたら、果肉がげっそりとしてしまった。
今年は昨年の反省を踏まえ、2年目の梅干作りに挑戦となる。
まずは、小梅で腕を慣らしておいたほうが良さそうだ。

小梅の収穫から南高梅の収穫まで、約1ヶ月。
この間に収穫される大梅で、毎年大量の梅シロップを仕込む。
砂糖漬けにして数週間、常温でゆっくりと梅エキスを抽出する方法は、味も色も格段に素晴らしい。しかし、高温の我が家では、梅にカビが発生して止む無く処分という経験が何度もあるため、この方法はやめた。
秋から冬にかけて、保存食作りで一歩も譲らない「時長」。
しかし、最も敬遠する「時短」に、夏だけはすべてを委ねてしまおう。
洗った大梅の水分を取り除いたら、なり口を取って炊飯器に入れる。梅の半分の重量のグラニュー糖を入れて「保温」ボタンを押すだけ。 12時間ほどで砂糖は完全に溶け、梅シロップが仕上がる。
梅を取り除いたシロップを鍋に入れ、沸騰させて冷ましたものを保存する。
我が家は、このシロップを常温で数ヶ月保存している。

この梅シロップを水で薄めた飲み物は、何の抵抗もなく火照った身体のすみずみにまで浸透し、太陽光に抗う力を再び生み出してくれる。
冬の間に用意した何本もの空き瓶が全て満たされるまで、大梅を手に入れ、炊飯器で梅のエキスを抽出する日々が1ヶ月続く。
赤紫蘇が店頭に並べば、赤紫蘇シロップもせっせと作り保存する。
この2つの飲み物さえあれば、どれだけ暑くても何とかやっていけそうな気がするのだ。
山のようなグラニュー糖が、次から次へと鍋の中で溶け消えて、やがて命の飲み物へと姿を変える。
ああ、甘くて危険な季節が、これから始まるのだ。
麻衣子
 
 
2019年5月28日
「過激に平和な、寒天ポンチ」
わたしの職場は植物を相手にした、太陽直下の肉体労働。
最近の急激な気温の変化に、同僚は皆一様に疲れ気味の様子だ。暑さで疲れがピークに達する午後の休憩時。男性陣の機嫌は悪く、わずかな火の気でもあれば、すぐさま導火線に引火して爆発してしまいそう。
この様な非常事態時、最も効果をあげる救済策――。それは、お手製の冷製デザートだ。
甘くて冷たいものは、火照った心身をやんわりとリセットしてくれる。男性陣の表情も、先ほどに比べて少し和らいできただろうか?
そこで、職場の平和維持とわずかな楽しみのために、頭と財布をひねりながら、思いつくまま夏場のデザートを作っている。

毎年夏になると、業務用のかき氷機が雑然とした休憩所に据えられる。
2リットル入りの巨大なかき氷シロップが数種類ストックされ、銘々が好き好きに、氷の甘さと冷たさで身体にこもった熱を発散する。
しかしこの業務用シロップ、どれだけかき氷を食べても、ワンシーズンでなかなか使い切る事ができない。
かさ張るシロップのパックは、冷蔵庫で幅を利かせながら冬越しをし、春を通り過ごし、とうとう2度目を夏を迎えることとなる。
今のところ邪魔くさいだけで、何の役にも立たず冷蔵庫に入ったままの、いちごの赤、メロンの緑、日向夏の黄色の3パック。
これらをじーっと眺めていたら、ふと思いついた。
夏だけに許される、過激で平和なデザートが作れそうじゃない?

それぞれのシロップを水で薄め、粉寒天を加えたら、火にかけて冷やし固める。
ゼラチンの比較にならないほど寒天の固まりは早いので、気持ちは気楽だ。
赤、黄、緑に固まった3色の寒天を、サイコロ状に切り分ける。
鍋に水とグラニュー糖を加え、しっかりとした甘みのシロップを作る。
ボールに冷やしたシロップと三ツ矢サイダーを入れ、そこにサイコロ状の寒天を加える。
すると、アジアの露店に迷い込んだような極彩色のデザートが現れる。
普段はあえて手を触れない人工色の赤、緑、黄色が、強い太陽光の下では急に親しみを覚えるのは何故だろう。
幼い時の縁日の楽しみ――。
安っぽくて、からだに悪い味というものは、夏の暑さと妙にしっくりとくる。

職場では、この中にドラゴンフルーツとバナナをサイコロ状に切ったものを加えた。
ここでわたしは声を大にして言いたい。
ドラゴンフルーツは、デザートにおける名脇役であるということを。
白地に黒ゴマのような種が点在したドラゴンフルーツの色彩と、そのやや淡白な味、しっかりとした歯ごたえは、人工色で目がチカチカする、子供のおもちゃ箱のような寒天ポンチの過激さにブレーキをかけて、バランスの整ったデザートへ昇華させる。
バナナでは駄目。キウイフルーツでも駄目。パインでも駄目。あれも駄目、これも駄目。
使い切れないかき氷シロップの救済デザートが、ドラゴンフルーツの美しさにうっとり見とれてしまうデザートとなってしまった。
もちろん、ドラゴンフルーツが入っていなくても充分に美味しくいただけるデザートだ。
炭酸が抜けた方が全体の味馴染みがいいので、冷蔵庫で数時間寝かせてから食べていただきたい。
隣に座る同僚が、ズズズーっとシロップを飲み干したのを見たとき、蕎麦つゆを飲み干すお客を眺める蕎麦屋の気持ちと一つになった。

わたしはこのデザートの色彩と味がとても好きになってしまったので、母親が毎年6月に招待されるホームパーティに、この過激な寒天ポンチを是非もたせようと思っている。
好奇心旺盛な母は、自分の手間が省けることもあり大賛成だ。
夏は始まったばかり。職場の休憩所から、この夏どんな過激で、平和なデザートが生まれるだろう。
麻衣子
 
 
2019年5月20日
「がらくた山に響く、天使の声」
近所の小さなスーパー。
今年も段ボールにガラクタばかりを山積みに、店頭で所狭しと赤十字のバザーをやっている。
あらゆる物が支離滅裂に陳列されている姿にうんざりし、いつもさっさと素通りして店内の買い物を済ませるが、今年はふと足を止めた。

ブルーシートの上に、今様でない小ぶりな染付けの花柄のティーカップ6客とシュガーポット、ミルクポットのワンセットが無造作に並べてある。
金縁が剥げてないので、手放した持ち主はほとんど使っていなかったのではないだろうか。
共に汗する職場の女性陣と、休憩時に優雅なひとときを彩るには持って来いの品だと思い、ボランティアをしている60代と思しき女性に値段を聞く。
「そうねー、250円でどうかしら」。
250円とは、彼女の頭の中から何の根拠もなくポッと沸いてしまった数字だろう。
他人が無償で提供した品を売りさばくのがバザーなわけで、値段は売り手の人生経験と想像力、そして何よりも善意によるしかないということだ。
わたしは、「安すぎる」と内心ほくそ笑みながら、優美で華奢なそのティーカップセットを購入した。
これから店内で買い物だというのに、荷物はすでにかさ張って重い。

ついでの冷やかしに、陶磁器を無茶苦茶に突っ込んだ段ボールに視線を移す。そこに、埃まみれになった蛸唐草に松竹梅の染付け皿が大小2枚。
最近の陶磁器にはない製品の良さがある。たった今購入したティーカップセットと、もしや同じ持ち主ではないだろうか。
先ほどの女性に値段を尋ねると、一瞬考えたのち、「50円」と言葉を返した。
彼女にあるものは良心なのか、想像力の欠如なのか、もうわたしには分からない。あるのはただただ感謝のみ。
更に重くかさばる荷物を抱え、店内の買い物へ進もうとしたところ、書籍の山が目に付いた。
「ジョエル・ロブションのすべて」。
イノシシやウサギなど、一生調理することはないだろう食材の取り扱いなどを記した、分厚い辞書のようなフランス料理本が紛れている。しかも新品だ。
今日これで3度目となる、かの女性に値段を問う。
「そうねー、100円でどうかしら」。
わたしの目からは涙がこぼれそうになる。この人の美しい心が変わらないうちにさっさと100円を手渡し、足早に店内へ姿を消してしまう。
帰宅後判明したこの本の定価は8000円だ。
あの女性は、人間の姿をいっとき借りた天使であったのだろうか?

今や夕餉の食卓に欠くことのできない染付けの皿。
マヨネーズを添えただけの茹でブロッコリーが、この皿に盛り付けると何故か殿様ご膳へと化けてしまう。
染付けのティーカップは、昭和60年代、鳴海製陶が輸出向けに製造したものであった。
この小さなティーカップは、初夏へ向かおうとしている5月の気候そのものの爽やかさで日々を彩る。
かつて陶器の勉強をしていたにも関わらず、染付けの底力というものがここまで力強く、しなやかなものであるということを今更ながら痛感するのであった。
埃にまみれたがらくた山を、決して侮ってはならない。
麻衣子
 
 
2019年5月13日
「雑草遊泳」
初夏へ移り変わろうとしている季節の変化は、顔を見あげて目に飛び込んでくる空の青さや、山の緑の冴えなどから全身で感受することができるが、目線を落とした足元でも、初夏の訪れを賑やかに知らせてくれるもの達がある。

「雑草」とひとくくりで片付けている植物群。
一ヶ月以上前まで、まったく興味をそそられることのない対象物であったが、ある日職場で除草作業をしているときに悟った。
ほぼ毎日雑草と取っ組み合っているのに、その雑草の何たるかを学ぼうとしないとは如何なることか。職業意識の欠如は、自らの恥じを晴天の下に晒した。
そこからが早かった。
図書館から何冊もの雑草図鑑を借り、夜な夜な重たいまぶたを引きずりページをめくった。
知らないことを知るためには、対象の詳細な観察から始める。
ある植物の名が知りたい。花や葉の特徴、その色をしっかりと目で捉え、図鑑と見比べる。これが簡単そうで意外に難しい。
同じ黄色い花でも、微妙に花弁の数や形状が異なり、よく目を凝らして調べないと、足を踏み入れた雑草迷路から出るに出られず、立ち往生。
このような迷路の行ったり来たりを日々繰り返しているうちに、やがて雑草を一瞥するだけでその名称が自然に口からこぼれるようになる。
迷路の行き先に光が照らされたら、あとはその光を真っ直ぐに進んでゆけばいい。
知らないということは、単なる怠惰であったのだ。

最近は目線が下に落ちっぱなしだ。さて、ここにはどんな雑草が生えている?
今まで姿を見せなかった小判草(コバンソウ)が、脇に姫小判草を従えて、太古の姿を留めた昆虫のような実をブラブラとぶら下げている。
一体どんな深い悩みがあったのか、うな垂れっぱなしの蕾をよっこいしょと持ち上げ、春紫苑(ハルジオン)がようやく笑顔の花を咲かせた。
鬼田平子(オニタビラコ)はますます背を伸ばし、上空に小さな黄色い花火を次々に打ち上げている。
ひょろひょろとどこまで行き、何をしようとしているのか、松葉雲蘭(マツバウンラン)は薄紫の小花を誰にともなくささやいている。
小さな黄色い宝石をあたり一面にまき散らし、満足そうにしているのは米粒詰め草(コメツブツメクサ)。
若さで輝やく肌を自信たっぷりに晒す仏の座(ホトケノザ)。その隣で、姫踊り子草(ヒメオドリコソウ)は素肌をそっと隠してしおらしくしている。
足元で幼児の笑い声を絡ませてくる大犬のふぐり(オオイヌノフグリ)。
はこべと和蘭耳菜草(オランダミミナグサ)、耳菜草、蚤の襖(ノミノフスマ)の一族は、一軒一軒戸を叩いて家主と対面しないことには、誰が誰だか一向に埒が明かない。
地に埋もれながらドキッとするような視線を投げかける蛇苺(ヘビイチゴ)。
石器時代の名残のような武器を担いだ雀の槍(スズメノヤリ)は、一体何からの襲撃に日々そなえているのか。
小が大を飲み込む存在感がある、庭石菖(ニワゼキショウ)の雅。

歩道の脇やちょっとした空き地、どこにでも雑草という生命力溢れた植物は生えている。
身をかがめて小さな世界を凝視すると、時間はいっときマクロな世界へと飛躍する。
遠く見あげる宇宙の広さは、目線を落としたすぐ足元にも豊かに広がっている。
麻衣子
 
 
2019年5月7日
「我が身を守る、夕食貯金」
仕事から帰った夜、わたしは夕食の支度に、まな板と包丁を一切使わない。
こう言うと、とても悲壮感漂う粗末な夕食をとっているように思われるだろうが、ご飯とお味噌汁、おかず3品は必ず食卓に並べる。
多いときは5品というときもある。
冷凍食品やレトルト食品、スーパーのお惣菜は、我が家では歓迎されない客人であり、わたしは魔法使いでも、手品師でもない。
それでは包丁とまな板を使わずに、どうやって夕食を用意できるというのか?

夕食の支度は10分もあれば完了してしまう。
椎茸と刻みねぎを具に入れた香ばしい八丁赤味噌汁。
刻みねぎとゴマ、黒酢、しょう油で和えた、喉越し良い沖縄もずく。
人参と椎茸、油揚げがたっぷり入った優しい甘みのひじきの煮物。
一晩味付けして、しっかり味のついた手羽元の照り煮。
人参、きゅうり、春雨の中華風酢の物、バンサンスー。
希望とあらば、菜花やほうれん草の和え物も即座に用意ができる。
すべて冷蔵庫内のガラス容器、もしくは冷凍庫の保存パックから、染付けの皿や漆器にぱぱっと移し変えるだけ。

これらおかずを直径45センチの円卓に所狭しと並べ置き、もぐもぐと口を動かしながら色々な食材の味と食感を楽しむひととき。
一日中、屋外でからだを動かす仕事をしていると、カレー、うどん、パスタだけといった単品夕食に、肉体と頭が納得しない。
酸味、甘み、苦味、旨み、冷たさ、温かさ、そして食感や色彩が豊かに混在した和食は、心身の隅々まで充実感をみなぎらす。
健康を維持するためにもバランスのよい食事が必要だが、毎晩仕事から帰って一から準備をするのは、ストレス以外の何物でもない。

そこで休みの日をフル稼動し、夕食貯金に取り掛かる。
煮物やお味噌汁に使う出汁は、まとめて1リットル作って冷蔵保存。
さば、むろあじの厚削り節と羅臼昆布をたっぷり水に入れて一晩置き、翌日弱火でゆっくり煮出すといい出汁がとれる。味のいい出汁は、何よりも豊かな食事を保障する。

椎茸やしめじなどのきのこ類は刻んでざるに干し、冷凍保存。煮物やお味噌汁を作るとき、冷凍庫から取り出し、ぽいぽいっと出汁に放り込むだけでいい。便利なだけでなく、味も濃縮されていいことずくめだ。
油揚げは使いやすいサイズに切って冷凍保存。
菜花やほうれん草などの葉物も、新鮮なうちに茹でてしまい、使いやすいサイズに切って冷凍保存。水に入れて解凍すれば、和え物やスープなどにすぐ使え、不足しがちな緑黄色野菜を積極的にとることができる。

もずくは、パックから取り出したらすぐに調味料で和えて冷蔵保存。幾つも個包装されたもずくは冷蔵庫だけでなく、ごみもかさばり、味も好きでないので買わない。
ねぎは数日分を刻んで、いつでも使えるように冷蔵保存。
サヤエンドウやパセリなども、茹でたり、食べやすい大きさにちぎって冷蔵保存。
朝食用の塩鮭は、まとめて5切れグリルで焼いてほぐし、冷凍保存。瓶詰めの鮭フレークより経済的で、何より味が良い。
ひじきの煮物やバンサンスーなどのおかずは5食分ほどまとめて調理し、冷蔵保存。
人参を刻むとなったら、朝食用の人参ラペ、ひじきの煮物、バンサンスー用にまとめて4本ほど刻んでしまう。
更に波に乗り、バンサンスーのきゅうりを刻んだついでに、もう一本きゅうりを刻んでポテトサラダも作ってしまう。
買い物から帰ったら座ってお茶など飲まず、一気呵成に次から次へと食材の処理を済ませてしまうのだ。

このように、下処理した食材やおかずを、鮮度を失わずに5日間ほど冷蔵保存するためには、プラスチック容器ではまず無理な話で、ぜひともガラス容器を取り揃えたい。百円ショップで売られているもので十分だ。
道具選びも味と時間を保証するものだということを、失敗を重ねた経験者が強く主張するところである。
休日に貯めこんだ夕食貯金があれば、包丁とまな板を持ち出さなくでも、すぐに3、4品のバランスのとれたおかずが食卓に用意できる。
自分が持ち合わせている時間と、冷蔵・冷凍庫のサイズ、家事技術やお財布事情もろもろを天秤にかけて、自分なりの夕食貯金をこつこつと続けてゆけば、毎日の食卓に豊かさと彩りが生まれるだろう。
麻衣子
 
 
2019年4月26日
「植物は、其処でじっと待っている」
面白い出来事があった。
名古屋東部にある職場でのこと。
除草作業をしていると、ここにシロバナタンポポは自生していませんかと中年の男性客が声をかけてきた。在来種のシロバナタンポポをどうしても実際に見て、カメラに収めたいらしい。
白いタンポポ?
今までの人生で、わたしはこの目で黄色でないタンポポを見たことがあるだろうか?
まるで記憶がないし、残念ながら職場にシロバナタンポポは自生していない。
男性は所在無く立ち去ってゆき、シロバナタンポポもわたしの人生から遠のいてゆくかと思われた。

数日後、犬山祭に母と出かけた。
大変陽気のよい一日で、のんびりと桜を愛でながら、犬山城の周りを流れる川沿いをそぞろ歩いていた。西洋タンポポやカラスノエンドウなど、お決まりの雑草がのびのびと背を伸ばしている。
桜の樹の足元に、ピンクや黄色の花々が小さな歓声をあげている景色をじーっと眺めていると、ぽつんと一本、白いタンポポが咲いている。 わが目を疑った。
あのシロバナタンポポが、時を遡って目の前に姿をあらわしたのだ。
母親にことの次第を伝えると、先ほど群生している場所があったとさらりと言う。
桜色の空気というものは、いとも容易く時の流れをかきまわしてしまう。

西洋タンポポの黄色い群れの中で、このシロバナタンポポはいつまで咲き続けることができるのだろう?そんな心配をしながら、川沿いの道を再び進んでゆくと、蔓状に伸びた枝から白く涼しげな小花が咲いている。
母もわたしもその愛らしい花木の名を知らない。
後日職場で調べようと写真に収め、二人のそぞろ歩きは永遠の川のごとく一日流れ続けた。

それから数週間。
職場で棚作りしているアケビが、薄紫色の小さな花を無数に咲かせている。
なんとも言えず可愛らしい姿で、数本の蔓を切り落として花瓶に活けた。
今まで桜の花を活けていた職場のロビーに、一転して爽やかな初夏の風が吹き抜ける。
ところで、わが職場のアケビは実がつかない。
自家不結実性のアケビは、結実するために異品種のミツバアケビなどを混植する必要がある。
職場に混植していたミツバアケビは絶えてしまったため、残されたアケビは結実することなく、ただ可憐に花を咲かせているわけだ。
アケビの品種を知るために、インターネットで様々な画像を検索していてふと思い当たった。
犬山城の川沿いで撮影した名称不明の蔓性植物は、まさにアケビそのものではないか。

職場のアケビの花は薄紫色だが、犬山で撮影したアケビの花弁は白色。
柵ごしに遠い姿を眺めたので、今までまったく気がつかなかったし、撮影したことすら忘れていた。
遠くに流れ去ったと思われた時間が、緩やかにその流れの向きを変えた。
名古屋にあるわたしの職場と犬山城には、どうやら目では見ることのできない時空の川が流れているようだ。
麻衣子
 
 
2019年4月19日
「桜の下で舞う日本人」
桜という完全な舞台装置を、日本人がいとも容易く生活に取り入れてしまったこと。
それは日本人の死生観にあるのではないかと思う。

何の変哲も、色も香りもない、記憶の片隅にも残らないありふれた町並みの中、人は目的地へ向かって歩みを進め、車はスピードを上げてどこかへ急ぎ立ち去ってゆく。
昨日と今日を隔てる違いやずれというものは何ひとつなく、壁紙のようにぺらりとめくれてしまいそうな恐ろしく平ぺったい日常という風景が、ある日突如としてむくりと立ち上がる。

満開の桜から伸びる美しい指先が、日常に流れる時間をくるりとかき回す。
先ほどまで四肢を固めていた景色は酔いでふらつき、その渦中にいるわれわれも天地を忘れて酔いに酔う。
あの世とこの世までもが花色の指先にかき回され、もはや両者を隔てる境はない。
わたしの前面は生の空気に触れているが、背後は死の空気に触れているかもしれず、自分の知っているつもりの所在地が、なにかとてもあやふやなものになり、ではそれが不安かといえばまったくそうではなく、その所在なさが妙に心地よい。
歩いているのに地面に触れている感覚はなく、景色を見ているつもりですでに景色と溶け込んでおり、見上げた桜はみずからに咲く花となる。
遠く離れているものが肌に触れるほど傍らに近づき、今という時は霞にまぎれ、重力に縛られた日常の生は、羽衣をまとって自由自在に時空を舞い上がる。

わたしたちは、どういうわけだか本能的に知っている。
忙しない生の時間を潜り抜け、桜の木の下からいとも軽やかに、あらゆる隔たりを解き放つあの世へ戯れることを。
麻衣子
 
 
2019年4月15日
「波打ち際の椰子の実」
椰子の実が波に流されて、何の因縁か、ある日遠い異国の砂浜へたどり着く。
やがてその実を拾い上げる人がいるのか、それとも人の手にも触れられず再び波にさらわれてゆくのか――。

最近の我が家には、椰子の実は流れ着いてこないが、次から次へと熱帯の果実がどっさりと流れ着く。青パパイヤ、青バナナ、未熟なスターフルーツにレンブ。
いずれも、ひと手間かけないととても口にできないものばかりだ。
一方、冬季は食料庫として襖を閉ざしたままの北側の一室には、加工しても一向に減る様子のないハッサクの山がそびえ立っている。
我が家と頭と時間の砂浜は、もはや果実の波に浸食されつつある。

果実は流れ着いた砂浜でじっと待っている。
わたしが動き、近づき、手に取り、それを口にすることを。
その気配を感じながらも、他にも生活はすべきことがいくつでもあり、果実を波打ち際から拾い上げることは後回しになってしまう。
しかし、果実にも鮮度というものがる。
私の時間にも鮮度というものがある。
椰子の実が再び漂流を始める前に、この手で拾い上げてやること。そのタイミングというものはどこにあるのだろう。

スターフルーツを加工処理しなくても、生活は何事もなく続いてゆくし、青バナナを苦心して食べようとしなくても日本人の食卓は何一つ困らない。これら淡々と続いてゆく生活の隙間に、わたしが椰子の実と出会う波打ち際というものが隠れているようだ。
毎日続く家事や仕事で心身が一杯一杯になっていると、この波打ち際がまったく見えないし、打ち寄せる波音も聞こえず、潮風を肌に感じることもできない。
心の暇を見失うということは、「見るべき目」「聞くべき耳」「感じるべき肌」を完全に見失うことであった。

ザザザー、ザザザザー――。
波が浜に打ち寄せる音が遠くから聞こえてくる。
背中には砂糖がぎっしりと詰まったリュックを背負い、右手に包丁、左手に鍋を持って、生活の鬱蒼たる森から余暇たる波打ち際への小道をかきわけてゆく。
次から次へと我が砂浜に流れ着く果実を、この手で拾い上げるために。
麻衣子
 
 
2019年4月5日
「木材について学びませんか?」
東白川村森林ツアー5月25日に弊社協力業者の材木屋さんによる「東白川村森林ツアー」があります。皆様いかがでしょうか?僕も家族と参加しようかな…って思ってます。

日本の木材の流通は近年大きく変化しました。角に丸みのある1等や2等という等級のヒノキ材や杉材など見向きもされなくなり、角がピンとある特等しか流通しなくなりました。また海外産の材木や集成材も主流になり、日本の林業は衰退の一途をたどっています。

間伐材をうまく使いながら森林を維持していける仕組みを勉強して、もっとおおらかに、もっと寛容性のある家づくりが今後日本では見直されるべきです。

植林をしたり製材工場を見学したり、木材について1日学べます。ぜひお子様と一緒にご参加ください。参加希望の方は弊社までお問い合わせメールをお送りください。皆様のご参加をお待ちしております。
圭成
 
 
2019年2月21日
「物は回りまわって塵となる」
我が家では、新聞は3回生まれ変わる。
まず、新聞としての本来の目的である新聞記事を読む。その後、新聞は「紙」としての機能を果たすべく2回活用される。読み終えた新聞を、そのままのサイズ「大」と、それを2分割にした「中」、さらに2分割した「小」の3種類のサイズに分類する。
「大」は、白菜や大根など大きな野菜を包むためのもの。
「中」は、葉物やニンジン、きゅうりなど、クッキングペーパーで包んだ小ぶりの野菜を、保存性を高めるために更に包むためのもの。
「小」は、野菜くずや、食器の汚れを拭った米ぬかなど、台所から排出されるごみを包んで捨てるもの。
これでは、新聞は2回の使用で終わってしまうではないかと思われるだろうが、頼りがいのある丈夫な新聞を、野菜を包み終わった段階でむざむざと捨てるわけにはいかない。
台所の扉を開けたベランダに吊り下げた物干しハンガーに、湿り気を帯びた新聞を乾かし、再び「小」へ分割して台所ごみ処理用に利用する。 ここまで新聞を活用すると、清々しい気分にさえなる。

ちなみに、野菜を包んでいたクッキングペーパーも、同じように食器の汚れ拭きとして再利用する。クッキングペーパーはとても便利な台所用品だ。便利だからこそ気をつけて使わないと際限がなくなるので、洗った野菜は布巾で拭うようにした。青森にある「森のイスキア」で佐藤初女さんが実践されていたことを本で知り、見習ったことだ。
ビニール袋も汚れのひどいものは捨てるが、1回野菜を包んだだけのものなどは、水洗いして干し、ごみ処理用に使う。
そもそもビニール袋自体を使うべきではないのだが、習慣は自らの行動を汚染し、それに甘んじてしまっている。社会の仕組みが整うのを、受身で待っていてはいけないのだ。

生活にはリサイクルできるものがたくさんある。
使用済みで裏白の用紙は、もちろんメモ帳へ再利用。自分で作った簡易メモ帳は気軽い使いやすさで、もう何年もメモ帳など買っていない。
使用済みの麻ひもやビニールひもなども、捨てずに小さく結んで保存する。新しいひもを切らなくても、使用済みのひもで大概の目的は果たせてしまうのでとても重宝している。
食べ終わったゼリー容器や、綿棒が入っていたケース、ふたのない瓶、おかずの入っていたプラスチックパック――。視点を変えれば、再び活用できるものは身の回りにたくさんある。
これらを収納するスペースの問題もあるが、すぐになんでもかんでもゴミ箱へ捨ててしまう行為は、見ていて美しいものではない。
物を捨てることはとても簡単だが、活かすことには知恵と工夫が必要になる。あらゆるものは限られた資源なのだ。
最近は、サランラップを使うことも気が引け、何か代替品はないかと考えている。

江戸時代、紙は何度も再利用された。手紙はメモ書きに使われ、さらには襖の破れを塞ぎ、紙縒りにさえなった。
着物は徹底的にリサイクルされ、着物をほどいた糸さえも再び使われた。
そういう行為を貧乏くさいという人がいるが、そうだろうか?
暮らしに知恵と工夫を伴おうとしない行為のほうが、貧乏で気の毒なことだとわたしは思う。
麻衣子
 
 
2019年2月13日
「ああ目出度き、サラダかな」
立春から1週間が過ぎ、やっと雛人形を飾ることができた。
1年のうちわずかな期間しか陽の光を浴びてもらうことができないので、もっと早く迎えてあげたいのだが、自らが生みだす日常のざわつきが、おおらかな心の余裕をすっぽりと覆ってしまい、支度が遅れてしまった。

実家から譲り受けた、お内裏様と三任官如。
母方の祖父が買い与えてくれた木目込みのお人形は、佇まいが非常に優雅で表情に少しの棘もない。暗闇の中で1年の大半を過ごしてきたというのに、何の恨めしさもなく優しい微笑みを投げかけている。
見ているだけで心のざわつきがほぐれてゆくのは、雛人形が春の光を放っているからだろうか。

色彩とは春の代名詞だと思っている。
お姫様が身に着けている十二単は色彩の海原だ。三任官如は紅白をまとい、お姫様の色彩を見事に引き立てている。
「ああ目出度きかな、春光の到来よ!」とお人形を飾り、色彩を余すところなく享受しようとした日本文化のなんと高尚なことか。着物を日常から手放し、洋装が常になった我々日本人は、色彩の目出度さと有り難味をどれだけ享受しているのだろう。

1月も中旬を過ぎたあたりから、体が突如として生野菜を欲するようになった。色々な野菜と味を、様々な食感で、モリモリムシャムシャと馬車馬のように食いつきたいのだ。
そして、毎晩翌朝のサラダを仕込む「盛り盛りサラダ」作りが始まった。

今朝のサラダ。
・一口サイズにちぎったレタス
・輪切りしたブラックオリーブ
・キャロット・オニオンラペ(ケイパー、ショウガ、レモン、蜂蜜で漬けた物を常備)
・乱切りトマト
・さっと湯がいた絹さや
・ちぎったパセリ
・マッシュルームのマリネ
・乱切りしたゆで卵
・サイコロに切った木綿豆腐

これにパルメザンチーズ、塩、みかんシロップ、オリーブオイルをかけて頂く。日によって、ここにちりめん雑魚やサラダ寒天、蒸しジャガイモが加わることもある。
このサラダは色々な食感、味の混在だけでなく、緑、赤、白、黄色、黒、オレンジといった色彩の饗宴が眠っていた脳をはっと目覚めさせる。
自分が全く意識もしなければ操作もしていない体の本能というものは凄いなと思う。甘み、苦味、酸味、旨み、渋みで停滞していた冬の体を目覚めさせ、目出度き色彩を全身に取り込み、体の深部から春の芽吹きを猛烈に促しているのだから。
「わたしは知らない、けれどもわたしは知っている。」
無意識はぼーっとしている意識に、見えないものをしっかり見るようにと懸命に声を張り上げる。それが、わたしにとっては「盛り盛りサラダ」という形になって現れた。

まだまだ寒い季節は続くが、土壌の深くに、体の深部に春の芽吹きが生まれようとしている。
灰色の、暗い色彩を脱ぎ捨てて、目出度き色彩を余すことなく享受しようではないか。
麻衣子
 
 
2019年1月30日
「瓶詰めにした太陽光」
色彩を失ってしまった灰色の冬空に、太陽の光のごとく輝く樹木がある。
八朔、伊予柑、夏みかん、甘夏などの柑橘樹だ。
果皮は厚くて剥きにくく、果実は酸味と種があるために、生食の好き嫌いがはっきりと分かれる柑橘類ではないだろうか。
しかし、この負の特性が錬金術の手にかかると、黄金の食べ物として見事に生まれ変わる。

これら柑橘の分厚く、苦味のある果皮は、食用としてママレードや砂糖漬け(ピール)に加工ができる。ママレードは果皮と果肉のジャムで、砂糖漬けは、果皮に砂糖液を染み込ませたものだ。生食だと苦くてとても食べることができない果皮が、人の手と砂糖と時間によって魅惑的な食べ物となる。
いずれも作り方は様々だが、簡単に説明してみよう。

ママレードもピールも、果実と果皮に取り分けたら、果皮だけを沸騰する湯のなかで何度か煮る「湯でこぼし」を行う。苦味を取りながら、同時に厚い果皮を食べやすいように柔らかくするためだ。
しかし、これら柑橘の特性でもある苦味をすべて取り除いてしまうと、ただの甘ったるい食べ物になってしまうので、適度な苦味を残しながら湯でこぼすという経験値が必要になってくる。

さて、簡単に噛み砕ける柔らかさになった果皮。
ピールは果皮についた白くて厚い綿の部分を残し、数日間かけて砂糖液の濃度を徐々に高めて浸透させてゆく。火にかけた鍋で1時間程で仕上げるスタンダードな方法もあるが、時間と砂糖に任せっきりの「放牧スタイル」が何か神秘的であり、また性にあっているので昨年からこちらの方法を採用している。
充分に砂糖が浸透した果皮は、太陽の光が凝縮したような透明感と輝きがある。
これを乾燥させて、グラニュー糖やチョコレートをコーティングして菓子としてもいいし、乾燥させないでパウンドケーキなどの具材にしてもいい。
今冬にせっせと作って冷凍しておかないと、来年の2月分までパウンドケーキにピールを入れることができなくなってしまう。
未来の喜びを貯金するために、一日という時間は台所であっという間に流れてゆく。

ママレードは、果皮についた綿の部分が苦味につながるのですべて取り除き、残った果皮を千切り、もしくはみじん切りにする。これを果実と砂糖で煮込むだけ。とろみ成分のペクチンを抽出するため、袋と種はお茶パックなどに入れて一緒に煮込む。
と、簡単に書いてはいるが、作り手や砂糖の量、煮込み時間、果実を絞るのかそのままにするのかなどによって仕上がりは千差万別。
しかも、毎年同じ味のママレードに仕上がらないというのが面白い。
「今年も太陽の光をこの手で煮詰めたよね?」と自問自答しながら、出来上がったママレードの瓶詰めを、太陽の光に透かしてうっとり眺める。
瓶には、「2019年ママレード」ではなく、「2019年太陽光」とラベルを貼ったほうが、自然界の神秘を讃えるようでいいかもしれない。
麻衣子
 
 
2019年1月18日
「透明な世界」
実家のトイレで桐島洋子の「聡明な女は料理がうまい」(1970年)を読んでいたのは、高校生か大学生の頃だろうか。
そこには未知の世界と生活の知恵がぎっしりと詰まっていて、「いつか、わたしもこんな台所を持ちたいな」という憧れを抱いて本を手にしていたことを覚えている。
一人暮らしを始めたのが25歳だったろうか。
台所には、乾物などを入れた瓶がいくつか並んだ。理由は分かっている。桐島洋子の本に影響されたからだ。
影響力とは不思議な力を持っていて、一度生活に取り入れてしまうと、それは生まれたときからそうしているのではないかという程、当人には当たり前の習慣、常識として定着してゆく。
そしてそれから15年以上たった今、場所を変えた我が家の台所には瓶が溢れている。
当時の影響力は、自らの樹木となり枝葉を広げ大きく成長した。

前回のコラムで年末年始の収納整理について語ったが、この際我が家にはいったい何本の食品保存瓶があるのか数えてみた。
ざっと150本。内訳は以下のとおり。

「乾物」
刻み海苔・大豆・切干大根・ひじき・海草・春雨・刻み昆布・出汁昆布・かつお節・ごま・黒ごま・米ぬか

「調味料」
ブラウンシュガー・グラニュー糖・氷砂糖・上白糖・粗糖・黒糖・てんさい糖・粗塩・片栗粉・カレー粉

「香辛料・ハーブ」
セロリ葉・ローリエ・唐辛子・花椒・マスタードシード・シナモン・八角・コリアンダー・クミンシード・フェンネルシード・パプリカ・ウコン・カルダモン・オールスパイス・クローブ・ナツメグ・カトルエピス

「茶」
麦茶・紅茶・ほうじ茶・ジャスミン茶・中国茶・ココア

「手作り薬用チンキ」
柚子チンキ・枇杷チンキ・ドクダミチンキ・アロエチンキ

「手作り果実酒」
梅酒・金木犀酒・みかん酒・ナイアガラ酒・イチゴ酒

「手作り保存食」
カリン蜂蜜漬け・梅干し甘漬け・新生姜の甘酢漬け・トマト水煮・ズッキーニオイル漬け・梅シロップ漬け・レーズンラム酒漬け・イチヂクワイン漬け・栗渋皮煮・梅酒漬け梅のシロップ漬け・ザワークラウト・ラッキョウ漬け・レモン蜂蜜漬け・杏シロップ漬け・柿シロップ漬け・杏ジャム・りんごジャム・ぶどうジャム・ゆすらうめジャム・イチヂクジャム・カリンシロップ

「手作り調味料」
割り下・中華ドレッシング・ゴマだれ

これら瓶が、冷蔵庫、台所の引き出し、ワゴン、押入れの中で出番を待っている。
そして、使い終わったワインや洋酒、調味料の空き瓶も、同じく次の出番がくるまで押入れの中で眠っている。
なぜ瓶にそこまでこだわるのか?

・まずは保存性が高いこと
・割れない限り、使用耐年数が長いこと
・中身が見えること
・耐酸性があること
・縦長なので保存スペースを取らないこと

しかし一番の理由は、瓶から透けて見える食品の姿が美しいからだろうか。
いや、そこに生活を支える自分自身の姿を見て、満足をしているのかもしれない。
麻衣子
 
 
2019年1月8日
「家と頭の中を整理する」
時間と気力が充分な年末年始、家の収納を大改革して頭の中と生活を見直した。
日常生活で生まれる大小様々なストレスは、放っておくと膿となって心身を蝕み、健全であるべき生活を不安定にしかねない。
そのために、日々自分を苛立たせている家の中の事象を洗い出し、その解決法を探ることが大切になる。

さて、我が家はひとり暮らしなのに物がいっぱい。
空き瓶、空箱、瓶詰め保存食、貯蔵食品、書籍、登山道具、買い集めた靴や服に鞄。
押入れと納戸はこれ以上の隙間はないという飽和状態。
押入れの奥に入れたものなどすでに頭の記憶に微塵もなく、一年経ってやっと陽の光を浴びることの繰り返し。このような押入れの明暗な出し入れが、自身を日常的なストレスにさらしていることに気がつき、解決策を模索していた。

イケア長久手店へ毎月ドライブがてらにバイクを走らせ半年以上になる。
買って、使って、納得し、通うたびに新たな発見がある場所だ。単なる購買意欲とは少し訳が違う。
使い勝手が良く汎用性の効くものは、シンプルなのに、形状、機能がとても良く考えられている。
このような製品はデザインが頭の中でこねくり回されたのではなく、生活の実感から生み出されたプロダクトデザインであるということがしみじみと感じられる。

その中でも、一度買って半年の間に5回もリピート購入したものが、3段式のワゴン「HORNAVAN(ホールナヴァン)」。
真っ白なただのキャスター付きの棚で、値段は1499円。サイズは26×48×77センチ。
使い勝手がよく、家中この棚で埋め尽くしたいくらいに惚れ込んでいる製品だ。
普通、家具は設置スペースを取るので部屋が狭くなると考えるが、それがあるからこそ部屋が広く感じるという家具もある。
我が家はキッチンに3台設置し、瓶詰めにした調味料や保存食、お茶、医薬品、水筒、根菜類、ごみ分別、掃除道具などを収納している。
ワゴンなので収納したものは丸見えだが、これでいい。見えないと何がどこにあるのか分からず、探す時間やストレスが増すだけでなく、収納している物の存在意味さえなくなってしまう。
これだと、調味料の買い置きは一目瞭然。梅干や新生姜の甘酢漬けなど、朝食の副菜や各種お茶もぱぱっと手を伸ばして取り出せるので、無駄な動きがなくなった。

たかがワゴン、されどワゴンだ。
玄関横の納戸にも2台設置し、トイレットペーパーや水、タオル、家の手入れ道具などをスッキリ収納。
このワゴンに取り付けられる小物入れ「SUNNERSTA(スンネルスタ)79円」で、暗闇に閉じこもっていた物が陽の光へ次から次へと姿を現す。
家だけでなく、自分の体の中にもさわやかな風が吹き抜ける心地だ。
収納を考えることは、自分が営む日常生活を考えることと同じことだ。
自分に必要なものや不必要なもの、自分の価値観などが理屈ではなく現実そのものとして見えてくる。住まうとういことは生活を整理することで、それは生活技術ということに繋がるのかもしれない。

今回、我が家の収納改革をするにあたり、改めて食品関連のものが多いことを認識したが、それらは自分の生活を潤してくれる趣味そのものであり、自分の分身で大切なものであると歓迎できたことは意外な出来事であった。
他人には無駄な空き瓶も、わたしには保存食を作るための大切なツール。
物の所有を否定するのではなく、肯定して前へ進んでゆくことのできる収納改革を手助けしてくれたイケアのプロダクトデザインの哲学に、身をもって感謝する年末年始であった。
麻衣子
 
 
2019年1月1日
「年始のご挨拶」
新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

昨年の10月末からジョギングを始めました。その日の都合に合わせて、6km〜8kmを走っています。最初は全く走ることが出来ず、歩きたくなったりペースが遅かったりしましたが、2〜3日走って休息日を設けて2ヶ月も経つと1kmあたりのペースも少しずつ上がってきました。

40歳を超えて急激に代謝が悪くなり、中性脂肪とコレステロールが溜まってきたことに対しての嫌悪感からジョギングを始めましたが、最近ようやく走ることが「楽しい」と思える気がしています。(笑)

こうやって少しずつ…牛歩のように、建築的思考や個人的な心の内部も向上して行けるよう今年も頑張っていきます!!
圭成
 
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